浜田 泰介 個展
2019年1月8日(火)~1月20日(日)
14,15日休廊
12:00-19:00 最終日17時迄
Dates | 日程 :
2019(New year), 1/7 Tue → 1/20 Sun
12:00 → 19:00 (Only Sunday until 17:00)
14,15 closed
GALLERY TOMOは新しい年を迎えた第一回の展示として、“SAMURAI”と銘打ち、浜田泰介の個展を行う。
1932年に愛媛に生を受け、激動の20世紀を作家1本の矜持を持って生き抜いてきた男、浜田泰介。彼の仕事は日本画のみにあらず、マテリアルにこだわらない融通無碍さが魅力でもある。本展示においては、戦前戦後はもちろん、平成も終わろうとしている今、益々エネルギッシュに制作する生ける巨匠の、日本であまり表に出ていない仕事に焦点を当てたいと考えた。
以下、作家本人の言葉によるステートメントを記載する。
浜田泰介が語る「なぜ今、SAMURAI」か?
京都美大(現京都市立芸術大学)がまだ美術専門学校と呼ばれた時代に、愛媛県の宇和島から「必ず画家になる」と心に決めて京都へ来ました。17歳でした。選んだのは日本画。これは生家がバカでかい料亭で、その各部屋に、著名な画家の日本画がかかっていたことと、叔父が京都で福田平八郎たちと一緒に絵を志したが、病気になり夢破れ宇和島に戻り、画商(その頃は骨董屋と言われた)をしていた関係で、絵をやるなら日本画と自然に思っていたからです。絵の買い付けに行く時に叔父に同行することもあり、子ども時代から物の良し悪しを見る目は養われていったと自負しています。
京都美術専門学校に運よく合格。その後、戦後の改革の一環として、専門学校から大学への移行があり、無事に大学生となりました。おまけに専攻科(大学院)の試験にも受かり、「画家になる」という志はますます固くなりました。
ただ、青春の彷徨を繰り返す私は、落第を繰り返し、大学院を入れて8月分年も在学する羽目になりました。
長居したついでに、陶芸、油絵、彫刻などの部屋にも潜り込み、貪欲に学びました。
夢しかないような若い画家たちをそそのかす評論家も多く、時代も戦後の風潮で新しいものへ新しいものへと動いていきました。
緻密な日本画を描いてきた私は、抽象画とかコンテンポラリーとかいう言葉に強く惹かれるようになりました。若者とは即実行に移せる生き物なのです。私は数々の種類の抽象画を試みましたが、その中で、最も強く惹かれたのがアクションペインティングでした。「アクションペインティング」という言葉を最初に使ったのはニューヨークの美術評論家、ハロルド・ローゼンバーグです。1952年のことでした。詳しいことはここでは省きますが、私は、すっかり夢中で、このアクションペインティングに取り組みました。
日本人にはなかなか受け入れてもらえませんでした。地元愛媛の松山三越でこの「SAMURAI」シリーズの個展を開いた時、愛媛新聞は両面見開きで、地元出身の新進気鋭の画家を取り上げてくれましたが、作品は1点も売れませんでした。
そのころの京都では、今のような沢山の外国人ではありませんが、エリート階級に属するアメリカ人やヨーロッパ人が観光に来ており、画廊でも買い物していきました。私のアクションペインティングは、そういったお金持ちの外国人が求めてくれるようになりました。
そして、1961年、京都市美術館で仲間と大きな展覧会をしている時に、偶然来合わせた外国人に多くの大作を買ってもらいました。市の美術館で絵が売れるなんて珍しいことだったと思います。その中の一人が、チェースマンハッタン銀行の頭取でした。思えば、20代も終わろうとしていた時期でした。ずっと後になって、新聞で「チェースマンハッタン銀行がコンテンポラリー絵画を集めていた時期があった」という記事を読み、その時期がちょうど私が京都市美術館で頭取に買ってもらったころだったのを知りました。
絵の代金を渡航費としてアメリカに渡りました。絵を抱えて売り込みに行く体力は十分にありました。
ある画廊では、女性ディレクターが無名の私の個展を開いてくれ「ここで展覧会をする日本人は棟方志功についで2人目よ」と言ってくれました。棟方志功とはその後も縁があるというか、不思議な巡り合わせで、故郷に美術館ができた時の催しが1人目が棟方志功で2人目が私でしたし、また、京都の伏見稲荷大社に依頼され襖絵を納めましたが、隣の部屋の床の間にあるのが棟方志功の書です。
50年前のアクションペインティングを、「うちの画廊でやってみたい」と言ったのが30代の若い画廊主でした。半世紀前の作品群を人前に披露することに抵抗がないといえば嘘になるのですが、若い画廊主の熱意に負けて、新たに描きました。
「過去を振り返ればいっぱい宝物がある」というのが私の持論です。人間、そうそう新しいものを作り出す能力があるわけではない、人間の能力なんて高が知れてる。だいたい30年をめどに、ファッションも絵画やその他の芸術作品も繰り返し、めぐってきているように思います。勿論、そこにわずかに、時には大幅な変化が加わることは言うまでもないことです。
このアクションペインティング「SAMURAI」シリーズは、国内では、世界文化遺産の京都醍醐寺の社務所の玄関に掛かっています。因みに、醍醐寺三宝院の大玄関から150面を数える襖絵は私が7年の歳月をかけて描いたものです。
また福岡県の太宰府天満宮の宝物館や防衛大学にも「SAMURAI」の大作があります。個人で収蔵してくださっている日本の方も少なくないのですが、やはり外国に沢山あります。
チェースマンハッタン銀行や、美術館、文化施設、有名なハリウッド俳優、歌手などにも沢山買ってもらったのですが、独身時代のことで、整理整頓ができないこともあり、リストを紛失してしまったのが悔いになっています。一番のコレクターは、ダリのコレクターとしても有名な帽子のデザイナーでしたが(ダリとはその家で会いました)、彼女も亡くなってしまいました。
現在は、富士や桜などに代表される日本の美を描いていますが、同じ作家がこんな作品を生み出していた時代もありますという、少々ノスタルジックな展覧会ではありますが、会場には現在書いている作品の図録類もあります。比べてみてください。
平成31年1月5日
Taisuke Hamada | はまだ たいすけ
1932年(昭和7年)、愛媛県生まれ。滋賀県在住。京都市立美術大大学院を修了後、同36年から2度にわたり渡米。前衛的な抽象画で注目を集める。帰国後は日本画に転向し、「日本百景」「四国八十八ヶ所霊場めぐり」「大津百景」など風景画の連作を収めた画集を刊行。一方で大覚寺、醍醐寺、東寺、伏見稲荷大社、上賀茂神社、石清水八幡宮などにふすま絵や障壁画を奉納。